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佐竹氏の減転封が決定されたことで関ヶ原

一連の論功行賞と西軍諸大名への処罰は終了した。1603年(慶長8年)、家康は征夷大将軍に任命され江戸幕府を開くが、この年西軍に加担して改易されていた立花宗茂、丹羽長重、滝川雄利の三名が大名に復帰している。その後相馬義胤など数名が大名に復帰するなど大名家は少しずつ復帰していった。西軍に加担した大名の中には大名として明治維新まで存続したものも多く、島津や毛利、佐竹など倒幕に大活躍した大名などもいる。

しかし大体の西軍加担大名は領地を没収され浪人となった。その多くは幕府旗本や諸藩の藩士として家を全うする者もいたが、長宗我部盛親や毛利勝永(毛利勝信嫡男)、真田信繁(幸村。真田昌幸二男)、大谷吉治(大谷吉継嫡男)など一部は大坂の役で豊臣方に加担し、10数年後、再度徳川氏に戦いを挑むことになる。

大垣城に篭っていた西軍首脳の石田三成他の関ヶ原転進については、「大垣を無視して佐和山城を陥とし、大坂へ向かう」という流言を流した家康に三成がまんまと釣り出されたという説が一般に流布しているが、これには疑問な点も多い。

一つは、もし家康がこの様な流言を流したのであれば、部隊が最も脆弱になる行軍中を襲撃するはずであり、家康がこの様な有利な体制からの攻撃をしかけなかったのは不自然であるという事。また、三成は関ヶ原の合戦前に豊臣秀頼の出陣を再三大坂に求めており、これは一枚岩とは言えない西軍の士気を引き締める為であったと思われるが、家康が大坂へ向かうのなら三成にとっては好都合であり、大坂城付近での後詰決戦を行えば良いはずであるという点である。
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これに対して、付近の河川の氾濫により度々水害に見舞われていた大垣城を家康が水攻めにし、その為に西軍の首脳と、既に関ヶ原付近に布陣していた毛利、小早川等との連絡が断たれる事を恐れた為ではないかという説(橋場日月、『歴史群像』2000年)がある。この説は、関ヶ原、松尾山に施されていた築城工事が新城と言えるほど大規模なものであった事を前提として、三成の戦略を以下のように推定する。

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2009年05月29日 08:25に投稿されたエントリーのページです。

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